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2009年8月

京北で懐かしの名画を観る

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7月の最終日、京北町の府立ゼミナールハウスに行きました。

2泊3日で素敵な催しに参加するのです。

日本映像学会関西支部第31回夏期映画ゼミナール2009 です。

001 3日間こんな自然の中で、好きな映画が観られるなんて、最高にしあわせ者でしょう。

昼食を頂いて、いよいよ開幕です。

最初の映画  『落第はしたけれど』 松竹鎌田1930年小津安二郎作品

配役に田中絹代、笠 智衆、斉藤達雄、これは昭和初期の不景気な世相を扱った作品。

下宿で暮らす5人の学生の卒業試験が近づいた。そんな中で高橋(主役)はカンニングをするため、前の席に座る友達のワイシャツの背中にびっしり徹夜で答案を書きハンガーに吊るして、やれやれこれで卒業間違いなし。朝方、疲れて眠っている間に下宿の小母さんはワイシャツをさっさと丸めて洗濯屋に出してしまった。ヒヤヒヤ、どうなるの?試験は終わった。高橋は無論落第した。しかし卒業した連中が職を求めて苦労しているのに、高橋ら落第組は元気よく通学し大学生活を謳歌している姿が見られた。大学のキャンバスを滑稽なポーズで歩く場面はまるで外国映画を観ているようだ。笑った!

2作目 『マダムと女房』 松竹鎌田1931年 五所平之助作品

タイトルを見れば一目瞭然。隣の美しいモダンマダムに丸こめられ、家では女房が嫉妬の炎を燃やす。シンプルな嫌味のない映画でした。とにかくジャズが聴けて私は満足。若いころ、ナンシー梅木の『バイヤ・コン・ディオス』や『アゲイン』、江利チエミの『テネシーワルツ家へおいでよ』に熱中したなな。

004ここゼミナールハウスは夏休みの研修合宿などで広い大食堂はほぼ満員。

緑深い広大な土地にユニットハウスが点々とあり楽しげな灯りがもれる。

私は大阪から参加された母娘さんと、このハウスでご一緒しました。

003_2 清潔な室内、二段ベットがいいですね。

寝て見たかったの、上で^^

3作目 『本日休診』 松竹1952年 渋谷 実作品

 佐田啓二・鶴田浩二・ 三国連太郎・岸 恵子・淡島千景・角梨枝子といった顔ぶれ、当時のイケメンと美人ばかり、、、おお!これだけで見る価値ありでした。

4作目 『お父さんはお人好し』 大映1955年 斉藤寅次郎作品

NHKの人気ドラマの映画化。何と言っても浪花千栄子の流れるような自然の演技には降参、いや凄い役者さんです。脇を固める堺駿二、益田キートンで笑いを競いましたねぇ。

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ちょっと一服。ここのコーヒー美味しい!

5作目 『台風騒動記』1956年 山本プロ・まどかグループ 山本薩夫作品

台風補助金を巡って、議員たちの軽妙なやり取りに注目。以前は何処にもありそうな事かも?桂木洋子のはではで芸者役と対象的に清楚な野添ひとみに一票を投じます。

6作目 『猫と庄造と二人のをんな』 東京映画1956年 豊田四郎作品

この作品は猫好きの谷崎自身の三角関係が原作の強いモティーフになっているらしい。森繁久弥(庄造)とりりー(猫)が戯れる場面はほとんどエロティック。

7作目 『にっぽんのお婆ぁちゃん』 松竹1962年 今井 正作品

ミヤコ蝶々、北林谷栄、東山千栄子、浦辺粂子、飯田蝶子というそうそうたるメンバーを集めて腕を競わせた作品。  ちくちく身につまされる思いで鑑賞しました。

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延べ3日間ゆったりした気分で名画を鑑賞できました。その間ロビーで刺繍展を観たり周辺を散歩したりで、まるで里帰りをしている様で気分も軽やかでした。同室の方と来年もお会いできる様約束してきました。おかげさまで涼風の路、いい夏休みを過ごすことが出来ました。お世話さまでした。

千人針に願いをこめて

昭和20年3月末、紫竹国民学校から丹波に移るまでの忘れられない、また忘れてはいけない記憶がある005

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父は兵役に出ていた。丹波の祖父から「京都も危なくなってきた。それに母子だけではどうにもならない、すぐ帰れ」の電報を受けた。母は幼い2歳の妹を背負って、紫竹上緑町から二条駅に急いだ。だが当時の二条駅では一日百枚(定かでないが)ほどしか切符を発行しなかった。

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早朝から切符を求めるひと達で長蛇の列が出来ていたと言う。1日目も買えなかった。2日目も私を学校に出してから行ってては遅かった。3日目は思い切って私も連れて早朝から行った。私たちが着いたときは、すでに広場東側の交番の前だった。待っても待っても前に進まない。そんな中で、何人もの白い割烹着の女性が千人針のお願いに廻ってこられた。。「我が夫の、我が息子のために・・・」。母の番が来た。母が涙をこらえて玉を縫っている様子を私はじっと見ていた。

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千人針とは、一枚の白布に赤糸で千人の女性が一針ずつ結び玉をぬいつけたもので、兵士達が腹に巻いたり帽子に縫い付けたりする。また「死線を越える」5銭玉「苦線を越える」10銭玉も一緒に縫い付けた。これ等の意味から弾丸避けになるとされ、出征兵士の慰問袋にい入れ安泰を祈願するものです。

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やっと切符が手に入り丹波にかえる。その後まもなく集団疎開や縁故疎開が始まった。

あの千人針を身につけた兵士たちが、如何ほどに復員できたであろうか?父は終戦の秋、腕に弾丸が貫通する傷を受けていたが無事帰ってきた。ある日学校から帰ると、玄関にぼろぼろの軍靴が干してあった。物干しには擦り切れた国防色の軍服がかすかに風に揺れていた。「お父ちゃんが帰ってきやはったんや」一目散で座敷に上がった。父は眠っていた。かいがいしく夕餉の支度をしている母の顔がきらきらしていた。

..

終戦から64年が過ぎた。当時を知る人も高齢になり、伝えることも聞くことも少なくなった。でも時には語りかけて日本の悲惨な過去を言い伝える義務があるのではないかと私は思います。

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(上2枚の写真は昭和18年秋、幼稚園の運動会です)

若い日の山

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昭和31年夏の日の思い出です。

私たちのグループは、生理学の教授で山登りのプロK先生とN先生と生徒たち計17名でした。

上高地から徳沢、大滝山(2615m)蝶ヶ岳(2664m)常念岳(2857m)大天井岳(2922m)燕岳(2764m)有明岳(2268m)のいわゆるアルプス銀座を三泊四日で縦走しました。

写真上は穂高岳(3180m)槍ヶ岳(3180m)を見ながら蝶ヶ岳の尾根を颯爽?と歩く仲間たち。

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この辺りで休憩。大の字に寝転ぶ^^

雪渓で雪を水筒に詰める。

日当たりのいい所にチングルマやコバナノコマノツメ?の黄色い花が咲き乱れていた。

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逆になりました^^

これは出発記念写真です。

この時の仲間はどうしているかな?みんないいお爺ちゃんお婆ちゃんになっているだろうな。

今日ポストに入っていた、秋の同窓会に逢いたいな、語りたいな、笑いたいです♪

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